明治大学平和教育登戸研究所資料館 をたずねて

神奈川ネット運動川崎ブロック平和プロジェクト主催で、明治大学生田キャンパス内の登戸研究所をめぐるツアーに参加しました。

登戸研究所は防諜・諜報・謀略をめぐらす「秘密戦」というきわめて貴重な戦争遺跡のひとつです。1937(昭和12)年旧日本陸軍によって開設された研究所(正式名称は第九陸軍技術研究所)はアジア太平洋戦争において秘密戦の中核を担っていました。1944年には幹部所員250名、一般の雇員工員750名総勢1000人の大規模な研究所で、働く一般人には厳格な言論統制が行われたとえ親子の間でも仕事内容を話すことは固く禁止されていました。

日中戦争は、中国軍や民衆の抵抗が激しく戦争は長期化。日本軍はさらなる戦力強化のために、スパイ活動・謀略工作・偽造パスポートや偽札製造等の秘密戦を登戸研究所を中心に行っていきました。風船爆弾の開発では、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせた気球内に水素ガスを注入し、太平洋を偏西風に乗せて9000キロもの距離を爆弾をつるしてアメリカへ運ぶというものでした。気球の貼り合わせ作業をするのは近隣の女学生たち。9300発の気球が放球されアメリカまで届いたのは1000発ほどと推定されています。スパイが使用する毒性化合物や青酸化合物の暗殺用毒物兵器の研究がされ、動物実験、後の中国で行われた人体実験へとつながっていきました。幅広い分野から研究員が集められ当時の最新技術が動員されて研究が進められていました。

敗戦とともに研究所は閉鎖、ほとんどの資料は破棄され、働いていた人々は戦後長いあいだ堅く口をとざしていました。1980年代の反核・平和運動の高まりの中、長野や川崎の教師や高校生たちにより登戸研究所にも徐々に調査活動がすすめられました。若者たちのひたむきな歴史への探求心が、「登戸研究所のことは大人の誰にも話したくなかったが、君たちが高校生だから話した。」と元行員たちに心を開かせ、登戸研究所保存と資料館設置につながりました。学生や元所員により登戸研究所保存と資料館設置を明治大学に要望し、1950年(昭和25年)明治大学が登戸研究所跡地を購入し、保存が可能となりました。当時のまま残された建物、様々な当時の写真や資料の展示、動物慰霊碑、など世界でも珍しい貴重な戦争遺跡があることを、川崎のみならず、日本国中にしらせ、戦争遺跡として語り継がれるよう活動します。